たんぽぽの思い出ーThe Memory Of Dandelion

 自分は教育者に向いていないとしても、いつも授業中に素敵だなあと憧れた先生たちは多い。フォーカスは授業の内容よりも、真剣に聞いているようなふりをして教壇に立つ教師たちをじっと観察しているのが楽しかった思い出がある。

 でもそう思うと、素敵だと思って観察していたのは中高だった。小学校は、科目ごとに担当の先生が変わるということはなかったから、2年ずつ受け持つ先生と付きっ切り。6年間で合計3人の教師と密にかかわるだけなのだが、小学校の教師ほど、教育熱心でなくてなならず、実際にそうであった先生たちを思い出さずにいられない時がある。

 一番心に残っているのは、3,4年の時の担任、竹内先生(男性)。後から聞いた話だけれど、私たちの年代のあのクラスが、本当に一番大変だったそうだ。その一番の理由は、クラスにいじめられる女の子が一人いたことだったと思う。何をしても汚いとか、特に男子がその女の子をいじめるというか、まあ、優しさなく気嫌いするというか、いろいろあった気がする。それだけでなく、多分なんとなくやんちゃな子がそろっていたのだろうと思う。

 先生は、そのいじめられっ子のために、私が知らない所できっといろいろ動いていたことだろう。覚えているのは学級新聞に彼女の「声」を載せて、私たちのみならず、親御さんにもその声が届くようにしていたことだった。PTAで賛否両論もあったかもしれない。一人一人の子供を尊重しつつ、何とかこのいじめをなくそうといつも胃が痛そうな先生は、すらっと細身で眼鏡をかけ、青白いのが印象だった。

 そんなクラスだから、川崎病になってしまった実の娘さん(当時はまだ赤ちゃん)を私生活で抱えながら、放課後もよく遅くまで残り、時にランチも食べずに校長先生と真剣に口論している姿などを今でも覚えている(私はよく校庭で放課後遅くまで遊んでいたから、職員室がよく見えていた)。お楽しみ会というのが各クラスできる時期があったが、ある時期なぜか中止になった時がある。しかしそんな中、このクラスだけはやったのも覚えている。自習の時間、おしゃべりがやまず、妙に先生が静かだなと思ったら、実は小さな鏡で私たちのことを観察していた先生。気づいた子からなんとなく静かになっていって、最後には「やべー」みたいな顔をしながら全員シーンとなった。

 当時、各教師は小学校高学年から始まるクラブを担当していた記憶があるが、竹内先生は合唱クラブ担当だった。だから、先生の音楽の時間はかなり独特だった。教科書に載っていない先生の選曲する好きな歌を習ったり、4つんばいの姿勢で歌うという、お腹から声を出す練習があったり。特に先生が歌が上手だったという記憶はないのだけれど、頑張って高音をだして指導している先生の姿を思い出す。

 竹内先生にはあだ名があって、みんな「うっさん」と呼んでいた。誰がつけたのか、みんなで話す時の愛称だった。

 その後私たちは卒業し、一回だけうっさんに会うことがあった。うっさんがクラス会を企画してくれた時。苦労した学級だったこともあってか、その後の成長を見届けてくれたのだと思う。何を話すでもなく、集まってお菓子を食べて終わった記憶しかないのだけれど、うっさんがほほえましく優しく私達を見てくれていて、それだけで満足という感じの姿を覚えている。先生の気持ちの温かさは今でも感じる。

 

 当時というのは、なんとなく私生活をやや犠牲にしても、または私生活と同じぐらい一生懸命に担任を務めるという教師の姿があった気がする。こちらの教員たちはしっかり私生活を守り、時に給料や手当を良くせよと、授業そっちのけでストライキをしたりするのだが、どちらが良いか悪いかというのは価値観の違いだろう。

 それから、うっさんもまだ若い時だったから、その後、さじ加減というか、世の中や学校方針が変わっていくと同時に、私生活とのバランスのとり方も変わっていったかもしれない。何はともあれ、うっさんは私たちに一生の影響を与えてくれた。

 また、思い出話。涼しい一週間となりそう💛