写真の日は春が近いと思った。が、連日雪で来週金曜日まで春はまだまだ先送り。おとなりBC(ブリティッシュコロンビア)がすでに20度だと聞くと、うらやましい限りの気持ちになる。
それにしてもこの川の青と言ったらなんて美しいのだろう。歩いている時は葉のない枝先に芽が出ている木々や、川の音、空と雲の絵のような模様などが気分を良くしてくれる。だからそろそろ雪はやめようよ、と思うのだけれど、今年はずいぶん遅くまで続いているので、どんな夏が来てくれるのか(春は早々にすっ飛ばすのが常)少々不安。
先日は、飛んで飛んでバナナリパブリックについて気になったていた。洋服屋さんではなくて、この言語の起源と使われるときの意味などに。(気になる方はWikiをどうぞ。)アメリカはこのCovid19のロックダウンによる影響で、高速道路にずらーと並ぶ車の列ができた。いったい何の列かというと、フードバンクという生活困窮者に配給される食糧供給所へ向かう人々の列であった。だからよく、ダーリンはアメリカを先進国でありながら「実はバナナリパブリック」と呼ぶ。
カナダでもフードバンク制度はあって、実際にそれに頼っている人々もいるのだけれどアメリカほどではない。アメリカと比べたら、それほど資本主義国でもないので、貧富の差がありすぎるわけでもなく、なにより医療制度がまったく違う。すべての国民と住民に国民保険が与えられているし、今回のことでも、パブリックヘルスの対応と働きがとてもクリアで、政治家との役割分担のようなことができていて、誰が一番現在の問題について動き、誰の意見を尊重するかがはっきりしていると思う。とはいえ、問題はいろいろある。その一つは経済だけれど、オイル産業、そしてその輸出に頼っているせいで、この面においてはバナナリパブリック的なところは無きにしも非ず。
Wikiを読み続けていると、「百年の孤独」という文学書の例が出されていた。以前この本を英語で読もうとして挫折したのは2,3回。本を読む時間はたくさんあるはずなのに、ちっとも進まない。実はこの本は、このバナナ、フルーツ産業の悲劇を真に受けた政治背景が見事に描写されているのだそうだ。ダーリンはフィクションはあまり読むほうではないのだけれど、この本は素晴らしいフィクションだと絶賛する。
ところが登場人物の名前が同じでありながらジェネレーションが2回3回と変わったりして、どうもあるところから進まなくなって最後までページをめくることなく、いったい何の話?と興味がなくなっていくのがお決まりの私のパターン。
普段日本語の本やYoubuteを見ていると「また日本語」と茶々を入れるダーリンだが、この本に関しては日本語でもいいから読むといいという。そんな風に言われると、罪悪感もなく日本語で読んでみたい気になるではないか。いや気持ちだけは。
普段はカナダの物にあまり魅力を感じないため、もっとカナダがマーケットの幅を広くして、外国のものを取り入れてほしいと不満を抱いているのだけれど、こんなことがあると、すべてにおいて自給自足できることとはなんと大事なことかと思わされるわけである。
それにしても、小麦原産国で輸出までしているこの国で、もう何週間もどのスーパーを探しても薄力粉と強力粉、全粒粉などの粉類がまったく棚にないのはどういうわけか。一昨年だか去年だったかは、気候のせいで小麦ができすぎて余るという事態もあったぐらいなのに。明らかに買い占めの食糧品の一つになっているわけだが、本当に不思議である。
この「ニューノーマル」という生活の中で、いろいろな思いを抱きながら今のところはまだノーマルの域で生活している。不安というのではないが、いろいろなことを見つめなおせるチャンスではある。
本も読める、かも。また一週間。